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zoom RSS 『幻想植物園』 巖谷國士

<<   作成日時 : 2014/07/03 00:00   >>

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彼女のいる風景。

36の花と木をめぐるエッセイ。幼いころから花や木と会話を交わし、庭に小さな花壇を作って植物を育ててきたという著者が、回想をまじえながら植物への愛を述べる。花や木は著者にとっては女性であるようで、彼女という代名詞を用いているのに微笑ましくなる(グランヴィルやウォルター・クレインによる擬人化された花々も連想される)。博覧強記の人であるのに、それをひけらかすそぶりがまったくないところに謙虚な人柄を感じる。好奇心が強い人というのは謙虚な人であるのだろう。「軽い読み物」と断りがあるけれども――まさか著者の本でしりあがり寿や安藤裕子の名前を見ることになるとは思わなかった――、「彼女たち」に関する記憶の糸をたぐり寄せるようなゆるやかな語りが、何かと慌ただしく、季節の移ろいに目を向けることをなおざりにしがちな日常における一服の清涼剤になる。ひとつの植物について、書かれているのは3頁程度。この、少し物足りないような分量が逆に読み終えて余韻を残す絶妙な間を生んでいるように思える。決して湿っぽくならない程度に抑えられた叙情がまたいい。たとえば、小学生のころ、庭にアネモネを植えたときの回想はこんなふうに述べられる。
少しちぢれた花びらの深紅。睫毛の濃い目でこちらを見つめているような花芯の黒。自分より年上の美少女を感じた。
アネモネはもともと地中海岸に自生する植物で、その名はギリシア語の「風の娘」の意味にもとれる。神話では美少年アドニスの変身した姿だが、春の風の到来とともに咲き、また風とともに散ってゆくことからそう呼ばれた。だから儚さの象徴にもなる。

いまは失われた「年上の美少女」――まさに「花咲く乙女」――への憧憬を懐かしんでいるような趣に、読んでいるこちらの胸も疼く。しかし感傷的ではないので決して暗くはならず、あくまですがすがしい。ここで少し脱線すると、著者と親交のあった澁澤龍彦にも『フローラ逍遙』という美しいエッセイがあって、そのなかで彼は植物の球根に注目して、古代ギリシアでアネモネ(アドニス)やヒヤシンス(ヒュアキントス)や水仙(ナルキッソス)といった球根植物に変身するのがすべて男なのは球根と睾丸がアナロジカルであるからだと述べている(球根はラテン語でブルブスといい、「ふくらんだもの」という意味があるという)。澁澤は自身も述べているとおり観念的な人間であり、植物を植えたことは数えるほどしかないと書いている。書斎の人のイメージが強い。対して巖谷さんは旅の人だろうか。『幻想植物園』と『フローラ逍遙』を読み比べてみると、ともに西欧文化に親炙した二人の共通点と相違点が見られて面白い。

花は可憐な、愛らしき植物か。花びらを開けば生殖器が露わになるそのたたずまいは見ようによっては官能的にも見える。ドイツの批評家クルチウスは、作家を、人間社会を動物相と植物相で捉える二種類に分類してプルーストを後者としたが(『プルーストの花園』)、『失われた時を求めて』とは官能的な小説だった。カトレアや蘭といった色の強い――管理人にはややどぎつく感じられる――花は、作品中で性的な役割を果たし、眠っている最愛の女はベッドに置かれた一本の花に喩えられる。可愛らしく見えるコスモスは、その実、台風に花を散らされ茎を倒されても、しばらくすれば再起してまた花を咲かせるようになる。原産地がメキシコだというこの花は、そのかよわそうな見た目とは裏腹に、強い生命力をもった花なのだ。倒れて地を這ったのち再び咲き乱れるコスモスの原っぱを見ると嬉しいような気分になる。「子どものころのわたしは、災害の苦境からよみがえってきた妖精のようなこの花を、胸を熱くして眺めたものだった」。秋の寂しさに似つかわしいと思われがちな繊細なこの花(秋桜)の、芯の強さが好ましい。まさしく「野性と優しさをあわせもつ女性」だろう。澁澤によると、日本では人気のあるコスモスはヨーロッパではろくに見向きもされず、18世紀末の同時期に輸入されてきたダリアのほうに人々は熱狂したという。「華美」なダリアと「清楚」なコスモス。どちらを好むかに東西の人の気質の違いが現れているだろうか。

ひなげしも管理人には好ましい。
なんと美しい花だろうかと思う。産毛につつまれて下をむいていた丸い蕾が、ある日ぱっくりと割れて身をおこし、あざやかな赤色(ピンクやオレンジや黄や白もある)の衣をひろげる。花びらはごくごく薄く、ある種のシフォン地を思わせる皺々があり、かすかな春風にも揺れる。
色あざやかだが派手ではなく、不思議と透明感がある。薄い花びらをすかして、むこうの光が見えてしまいそうだ。美しさに自足するよりも陽光や微風に反応することのほうを好んでいるような、めずらしい気だての花である。

強い陽射しに花びらを透かせばその儚さに触れることがためらわれる。
ひなげしは英語ではポピー、フランス語ではコクリコ、スペイン語ではアマポーラ、イタリア語ではパパーヴェロという。なぜかおたがいのほとんど似ていない呼び名なのに、どれをとってもかわいい。聞いただけで大人の世界から遠そうな感じがする。

ひなげしという和名もまた愛らしい。罌粟の雛というほどのことか。花の名前には情緒に富んだものが多くて、文字を見るだけで切ないようなイメージが喚起されることがある。待雪草(スノードロップ)、金雀児(えにしだ)、向日葵、紫陽花、桃金嬢(ミルテ)。なるほどたしかに花は女性に見立てるべきかもしれない。「貴方が始めてヒヤシンスを下さつてから一年たつたのよ。/さうしたら皆、私のことをヒヤシンス娘つて言つたの。」――ふと連想されたエリオットの、これは叙情とユーモアに富んだ美しい一節(吉田健一『葡萄酒の色』)。

月刊誌で本書のもとになるエッセイが連載されたのは2011年1月からだった。この本もまた、『森と芸術』同様に、あの大震災を経て完成している。あとがきで著者はそのあたりの事情についてふれている。震災とそれに続く原発事故は、人間と自然の共生関係についてわれわれに再考を求める出来事だった。『森と芸術』のなかではじめに紹介されるギルガメシュ王の物語は、すでにわれわれに文明の行き着く果てを示しているようにも思える。書物(粘土板)が歴史を伝えるものだとすれば、歴史に学んで過ちを回避するのが人間のあるべき姿であるだろう。彼女たちとわれわれはどう生きるか。その声を聞くことができたなら彼女たちは何というだろうか。これからの時代にますます必要とされるのはアニミズム的な感性かな、という気がしないでもない。それは幼少期に、誰もがもっていたはずの感性でもある。




4569818269幻想植物園 花と木の話
巖谷 國士 宇野 亜喜良
PHP研究所 2014-04-19

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澁澤の博識を堪能しつつ比較文化論としても読める。図版もオールカラーでよい。
4582761666フローラ逍遙 (平凡社ライブラリー)
澁澤 龍彦
平凡社 1996-10

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