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zoom RSS 『幸福論』 アラン

<<   作成日時 : 2014/07/10 00:00   >>

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喜ばしき知恵。

幾度目かの再読。幸福論としてはバートランド・ラッセルのと並んで定番だろうか。

幸福な生のためには意志の力によって情念を克服することが肝要である、アランは繰り返しそう述べる。「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」。精神を成り行きにまかせて放っておけば、やがて人は憂鬱に陥るだろう。雨が降っているから、胃の具合が悪いから、道路が渋滞しているから、他人がこちらの思うように反応してくれないから――古代の王のように、椅子に座ったまま指一本動かさず、愉快なことがやって来てくれるのを待っているだけであれば、苛立ちやふさぎといった情念にとりつかれるだけで終わる。われわれが不機嫌になるのはある意味で自然なことなのだ。しかし、そんな生をわざわざ望む人がいるだろうか。同じ生きるのなら、喜びを抱いて、笑顔で、機嫌よくありたくないか。喜ばしく、すなわち幸福に生きるための手段としてアランが用いるのが意志である。情念が好き勝手に暴れる馬だとすれば、意志はこれを御す手綱に例えられる。
小雨が降っているとする。あなたは表に出たら、傘をひろげる。それでじゅうぶんだ。「またいやな雨だ!」などと言ったところで、なんの役に立とう。雨のしずくも、雲も、風も、どうなるわけでもない。「ああ、結構なおしめりだ」と、なぜ言わないのか。もちろん、こうあなたが言うのをわたしが聞いたからといって、雨のしずくがどうなるわけでもない。それは事実だ。しかし、そのほうがあなたにとってよいことだろう。あなたのからだ全体がふるいたち、ほんとうに暖まることだろう。ほんのちょっとした喜びの衝動でも、こういう効果があるのだ。

悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだと解説する心理学がある。上のアランの言葉も同じようなことを述べている。ここで大事なのは口にだしてみるということだろう。われわれはわれわれ自身の発言に、意外と束縛され、影響を受けている(言霊という言葉もある)。できると口にだせばできるような気がしてくるし、その逆を口にすればそんな気持になる。言葉にもっとも通じた人種といえば洋の東西を問わず詩人だろうが、ある詩人はその著作のなかでこんなことを書いている。
「何でもないさ」と大きな声で言ってみるのはいいことだ。もう一度。「何でもないさ」。これで助けになるだろうか?

『マルテの手記』

少なくとも、「どうにもならない」といったネガティブな発言をするよりは「助けになる」だろう。負の思考や負の発言はわれわれが自身に向ける鞭、自身に飲ませる毒である。たとえ心底はそう思っていなくても、そうであってほしいと思うような願いを抱き、発語することにはよい効果があるだろう。「吾々は誰でも自分からそうだと思いこんだものになってしまうのが慣いである」(ロレンス『黙示録論』)。
人間は自分以外にはほとんど敵はない。人間は、自分のまちがった判断や、杞憂や、絶望や、自分自身にさし向ける悲観的なことばなどによって、自分が自分自身に対してつねに最大の敵なのである。

誰かを敵だと見なすとき、本当の敵はその人ではない。その人を敵だと思い込む自身の思考こそが本当の敵である。アランは性格というものを信じない。昔マケドニアに誰にも手がつけられない暴れ馬がいたが、この馬を見た若き王は、馬が自分の影に怯えているのに気がついて、太陽を遮り影を消してやった。すると馬は大人しくなったという。アリストテレスの教え子アレクサンダーと彼の愛馬ブケファルスの挿話である。泣きわめく赤ん坊を抱いていた母親は、この気むずかしい性格は父親ゆずりだと愚痴ったが、実際には産着にピンが入ってかわいそうな子を刺していたのだった。物事には必ず原因があるとする、ややもすれば楽観的な世界観がアラン哲学の根底にある。精神科医・中井久夫さんの人間観と通じる部分があるだろうか。「私の人生観はわりと単純で、善人と悪人というんじゃなくて、余裕のある人間と、余裕のない人間とがあるんだろうと。それは程度の差もあるし質もあるだろうけど、私はそう考え、そういう軸で人をみている」(『「つながり」の精神病理』)。

わたしは、幸福の秘訣のひとつは自分自身の不機嫌に無関心でいることだと思う。無視していれば、不機嫌などというものは、犬が犬小屋にもどって行くように、動物的な生命力のなかに戻って薄らぐものだ。わたしの意見では、これこそ現実的な道徳のもっとも重要な主題のひとつである。自分の過失、自分の悔恨、反省によるあらゆるみじめさから、身をひきはなすことだ。「この怒りは消えたいときにはおのずと消えてゆくだろう」と言うことである。泣きわめく声も聞いてもらえない子どものように、怒りもすぐにどこかへ消えていってしまうだろう。


アランは感情を身体と結びつけて考える。「だれでも、風向きや胃のぐあいで、不機嫌になる」。ドストエフスキーの地下生活者は、自分が意地悪なのは肝臓が悪いせいだと述懐している。何も考えずあるがままの自然に引きずられていけば、いずれ面白くなくなる。それを防げるのは防ごうとする意志だけだ。怒りにかられて喚きたくなったらどうすればいい。喚けばなおのこと情念は彼にとりつくだろう。身体の痒さに苛立ち、やけくそになって引っ掻くのと同じ結果になる。そうではなく歌えばいい。喚きたいのに歌ったらどうなる。少なくとも喚くことはできなくなる。これだけでも上等だが、さらに気分が楽しくなるかもしれない。意志とは選択の問題、そして身体に関わる情念は彼の意志とそれに由来する行動によって克服することができる。握手のために手を差し出せば拳を握ることはできなくなる。微笑すれば眉間に皺を寄せることはできなくなる。悲しい気持に陥ったら、机に突っ伏すのではなく、いっそスキップしてみたらどうだろう。スキップしながら悲嘆に暮れるのは難しい。やがて運動は情念を消してしまうだろう。人間は死ぬようにではなく生きるようにできている。四の五の考えず、まずは行動に移してみることが大事だ。そこから始まる。

幼い子が泣いたりわめいたりするときには、本人が思ってもみないような純粋に肉体的な現象が生ずる。両親や先生たちは、それに気をつけなければならない。自分の泣き叫ぶ声で子どもは自分自身に苦痛をあたえ、さらにいっそういらだつ。おどかしたり、どなったりすれば、なだれのような泣き叫びはいっそう激しくなる。怒りを養うのは怒りそのものなのだ。それだから、そういうときには、ただ撫でてやるとか、目先を変えてやるとかして、からだを動かして行動することが必要である。こういう場合に母親の愛情というものは、赤ん坊を抱いて散歩したり、愛撫したり、静かにゆさぶったりして、ほとんど誤ることのない知恵を示すものだ。人は痙攣をマッサージでなおす。


アランが幸福のための技術とするのは意志することと運動すること、そして礼儀だ。怒りに駆られた妻がいるとしよう。夫と激しく口論をして気持は昂ぶり、顔は強張っている。しかしお客が来て彼を出迎えるために玄関のドアを開けたときには、先ほどの怒りは彼女のもとを去っている。偽善ではない。すでに彼女の心はお客のほうに向かっていて、自分を忘れているだけのことだ。これが社交の礼儀、そして礼儀とは他者を前提とする。「人は孤独のなかですべてを手に入れることができる、ただ一つ人格を除いては」。そう書いたのはスタンダールだった。この人格になるということを、ゲーテは人の子の最大の幸福であると考えていた。他者との関わりもまたわれわれが幸福であるために必要なものであるだろう。他者がいなければわたしたちの精神は遂に自分という檻のなかから出られない。
わたしは礼儀というものをこのように考えたい。それは、情念に対する体操にほかならない。礼儀正しいとは、すべての身ぶり、すべてのことばによって、次のことを言うか、表情で示すかすることである。「いらいらするな。自分の人生のこの瞬間をだいなしにするな」と。それでは、これは福音書的な善良さであろうか。いな。わたしはそこまでは押しすすめるつもりはない。善良さは差し出がましく、人を恥ずかしめることがあるからだ。真の礼儀は、むしろ、すべての摩擦を和らげる人から人へと伝わってゆく喜びのうちにある。


本書の「鑑賞」を書いている清水徹さんもその一人のようだが、世の中には幸福などという言葉は「断じて口にしたくなかった」青年期を送った人がいるという。管理人など正反対の人間で、それこそ幸福でいたいという一心で、ただそればかりを願って今日まで生きてきたように思う。健康な人が健康を意識せず病気になってはじめてその大切さに気づくように、幸福が念頭から去らずに生きているというのはきっと不幸な生なのだろう。傍目にどう映るかは知らないが、いつだって満たされない気持でいたし、いまもきっとそうだと思う。こんな生もまた、「特別なありかたではな」いだろう。そしてだからこそ、いつかそうなりたいと未来に希望を繋ぐことをよせなかった。

幸福になろうと欲し、それに身を入れることが必要である。幸福に通路を開け、戸口を開いたままにしておくだけで、公平な見物人の立場にとどまっているならば、入ってくるのは悲しみであろう。悲観主義の真実は、単なる不機嫌もそのままほうっておけば悲しみやいらだちになる、という点にある。(略)
なるほどたしかに、わたしたちは他人の幸福のことを考えねばならない。だが、わたしたちが自分を愛してくれる人たちのためになしうる最善のことは、やはり自分が幸福になることであるということは、じゅうぶんに言われていない。


幸福になることは、いつでもむずかしいのだ。それは、多くのできごとと多くの人々に対するたたかいである。そのたたかいに打ち負かされることだってある。克服しえないできごとだの、ストア主義の初心者には手に負えない不幸だのが、たしかにある。しかし、全力を尽くしてたたかってからでなければ、けっして負けたと思ってはならないというのは、おそらくもっとも明らかな義務であろう。そしてとりわけ、わたしに明らかだと思われるのは、幸福になろうと欲しないならば、幸福になることは不可能だということである。それゆえ、自分の幸福を欲し、それをつくらなければならない。


自分自身であれ。機嫌よくあれ。困難な生涯を送り、過激な思想を激烈な調子でぶちまけたあのニーチェもまた、同様のことを述べてはいなかったか。彼とアランを並べるのは見当外れだろうか。いや、アランの『幸福論』は、そのやさしいようなタイトルの実、なかなか過激な書物であると管理人は思っている。ニーチェの思想の根本を、自己啓発的な成功哲学への反発だと喝破したのは三木清だった。その彼は『人生論ノート』のなかで倫理問題としての幸福について次のように述べている。

機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。

「幸福について」


これもまたアランのと重なるところのある幸福論である。もっとも、こうした美しいアランの言葉も、いま起き上がれないほど深い悲嘆のなかにある人には届かないだろう。残念なことだが、言葉だとか書物だとか、そういうものの及ばない領域がわれわれの生にはある(3人の子どもを残して死に瀕している若い女性が、看病してくれるシスターにこう言ったという―― 「これが神のご意志だなんて言いにきたのなら帰ってください。それを言われると我慢ならないの。わかっているけど、こんなに苦しいときに、美しい言葉を聞いてもどうにもならないのよ」――キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』)。幸福論が及ぶ範囲にいるうちは、まだ楽観的でいていいのかもしれない。及ばないときは、身体の声に素直に従って、無理をせずゆっくり休んでください。




4087520374幸福論 (集英社文庫)
アラン 白井 健三郎
集英社 1993-02-19

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まだ若者だったころ、三木清のこの文庫本を、高野悦子『二十歳の原点』とともに机のうえに置いていた時期があった。
4101019010人生論ノート (新潮文庫)
三木 清
新潮社 1978-09

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