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zoom RSS 『私の幸福論』 福田恆存

<<   作成日時 : 2014/07/21 00:00   >>

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運命愛。

昭和30年から翌年にかけて、若い女性向けの雑誌に連載していた幸福論。職業、恋愛、性、結婚、家庭、母性など、当時の女性が抱えていた問題(いまもさして変化ないかもしれない)について現実的に意見を述べていく。著者は幸福論について、「不幸にたへる術」と考えていた(中野翠さんによる解説)。生きることはたやすくない。何も意欲せず、意識せず生きれば、われわれはすぐにも不幸に陥る。だから本書で展開される著者の幸福論は、ありのままの現実を直視することを読者に求める、ときにとても厳しい内容になっている。幸福とは人間が一生かけて追い求める理想であり、安易なごまかしや、うわべだけ綺麗に取り繕ったような甘い物言いは役に立たない。著者はそうした覚悟を読者に求めるかのように、顔の美醜の問題から本書をはじめる。

世の中には容貌に恵まれた人がいて、そうでない人もいる。容貌に恵まれた人は、そうでない人より何かと得することが多いだろう。少なくとも、あえて顔を醜くしたいと思う人はまずいないだろう。美人はそうでない人より出会いの機会も増えるし(機会が増えれば理想とする異性に会う可能性が増えるから、それは幸福な結婚をしたり家庭を築くこと、つまり幸福な生涯を送る可能性が増すことにつながる)、まったく同じ履歴ならば、企業の人事担当者は顔がいいほうを選ぶのが人情ではないだろうか。さらに、人は一般的に――むろん管理人も例外ではなく――顔のいい人をそうでない人より好む。だから顔の美醜は「現実社会では大きな役割を果たしている」。現代よりも昭和30年のほうが物事の建前を重んじる風潮は強かったと推測する。顔の美醜で人間の値打ちは測れない、そんなものは生まれつきで当人の努力と何の関係もない、その人の値打ちは人格で決まる、として――これはこれで偏見だろうが――美醜の問題をタブー視する傾向はいまよりも強かった。しかし、美容整形もエステもない時代に、著者は歯に衣着せずこう述べる。醜く生まれたものが美人同様のあつかいを世間に望んではいけない、と。いや、ことは美醜の問題にとどまらない。貧乏に生まれついたものが金持ちのように、あるいは身体にハンディのある人が健康な人のように世間から扱われようと望むのは誤りだと続ける。なぜか。理由は単純で、世界は不公平にできているからだ。

たとえば顔の醜い人がいて、彼女は自分も美人と同じように世間からちやほやされたいと思ったとする。しかし現実は彼女の思うとおりにならず、それを不服に感じる。少なくとも愉快ではない。不公平を前提とするような現実に対して彼女は恨みを募らせ、やがてその感情ははけ口を求めて、美人のあら探しを彼女にさせるようになるかもしれない。あるいは、自分は顔は醜いが心は美しくあろうとして歪んだ精神主義に向かわせるかもしれない。意識(ねたみ、ひがみ)を他人に向けたのが前者で、自分に向けたのが後者だが、ともに抑圧の原因である「自分の顔は醜い」という問題は解決されないまま、顔の問題を心の問題にすり替えてしまっているため、どちらを選択しても安らかな気持ちには至れない。幸福とは自分らしくのびのびと生きること。こんな、不自然に歪められたような生は不健康で、幸福からほど遠い。だから著者は、「とらわれるな」という。顔の美醜も、貧乏も、ハンディも、その他一切、「もって生まれた弱点にとらわれずに、マイナスはマイナスと肯定して、のびのびと生きなさい」と。

誰だって、美しく生まれつきたい。裕福に、健康に生まれてきたい。でも、みながみなそうではありえない。まずはその現実を受け入れることからはじめよう。そして、マイナスはマイナスだが、自分にはプラスもあるんだと問題をすり替えるのをよすこと。へんに自分を慰めようとすれば、マイナスへのひがみが消えないまま、それに目をつぶってプラスの面だけを見ようとする歪みが生じるから。目をつぶっても、そらしても、意識しないようにしても、弱点はなくならない。もちろん、弱点をなくすために努力しようとする心がけは尊いものだ。しかし誰にだって、「生まれ変ってこなければ、どうにもならないというような弱点がある」。そういう弱点を自覚したなら、素直にそれを認めよう。無理に埋め合わせようとしたり、目を背けたりしないようにしよう。引用すると、
もちろん、長所のない人間などいるわけはありません。しかし弱点をとりかえそうとして、激しい気もちで長所の芽ばえにすがりつき、それを守ろうとすれば、かならずそこに歪みが生じます。自分は顔がまずい。だから、ひとに指一本さされぬよう、立派に生きようという心がけは殊勝ですが、そういう意気ごみから育てられた長所というものは、なるほど外見はしっかりして頼もしそうにみえますが、内側は案外もろいものです。また、そういう立派さには、他人にたいする不寛容のつめたさがあるのがつねです。(略)
御当人は、自分のマイナスを棄ててプラスを助長せしめたとおもいこんでいるかもしれませんが、じつは、これこそ逆さにされたひがみにほかなりません。ひがみは、現実に敗北した不平家を生むと同時に、頑ななつめたい勝利者をも生むのです。(略)はじめの出発点が大事です。
まず自分の弱点を認めること。(略)そしたら、それをすなおに認めること。そして、それにこだわらぬよう努めること。そうすれば、他に埋めあわせの長所を強いて見つけようとあがかなくても、そのすなおな努力そのものが、いつのまにか、あなたの長所を形づくっていくでしょう。むりに長所を引っぱりだそうとしなくても、現実の自己に甘んじるすなおさそのものが、隠れた長所をのびのびと芽ばえさせる苗床となるでしょう。


どれほどよくしようとしても、人の世から不公平はなくならない。問題は変わっても優劣の価値観は常につきまとい、劣ったものは優れたものより下に見られ、顧みられること少ない。改良への意志を失ってはいけないが、しかし世のなかにはどうにもならないことがあるのを受け入れなくては、いつまでもひがみや嫉み、恨みの心で世の中を呪いながら生きていかねばならなくなる。だから不公平にこだわらぬ心を養うことこそ、「人間の生きかたであり、幸福のつかみかたであるといえないでしょうか」。何事であれこだわるから問題になるので、こだわらなくなれば――少なくとも本人のなかでは――問題は消滅してしまう、そんなふうにも思える。

どう生まれてくるかは各人の宿命だ。われわれはみな宿命を背負って生まれてくる。決して取り換えのきかない、唯一無二の存在として生まれ、生き、死ぬ。誰も代わりに生きてくれるものはなく、代わりに死んでくれるものもない。また、人は生きかたを学んでから人生をはじめるのではない。みなが初心者として、一回きりの生をスタートさせなければならない。生きていくうちに、あとから振り返って、あのときああしておけばよかった、あるいは、あのときあんなことしなければよかった、と思うことはあるだろう。しかし今更やり直せない。けれど、それでいいのだ。なぜなら、そのときはその選択をベストだと思ってしたのだし、誰にも未来など見通せないのだから、過去の時点では正解など選びようがなかった。過去のあやまちを認め、これをただすのはいい。しかし根本的には、われわれはわれわれ自身の過去を否定してはならない。否定することは自分の出発点を失うことになり、未来の自分をも失うことになる。生きている限り、人は幾度となく難しい選択を迫られる。右を行くか左に進むかが人生の分かれ道になるようなときがある。幸福になれるのか。それとも不幸になるのか。われわれには未来が未知だから、選択はいつだって難しい。悩みに悩み抜いてした選択を、あとになって後悔したくなることもあるだろう。違うほうを選んでいたら今頃はどうだったかとふと空想してしまうこともあるだろう。間違えたとしか思えなくて、何もかも投げ出したくなることもあるだろう。人生はそんなことの連続だ。だからこそ、それを受け入れる度量が大事になる。過去を惜しんで現在を悔やむことは過ちを更に重ねることにしかならない。過去を受け入れ、それを宿命として背負うこと。誰にも未来などはわからないということは、もしかしたら現在の道を行けば、想像していなかったような明るい場所に出るかもしれない、少なくともその可能性は残されているということでもある。けっこう、なるようになるものだし、気持ひとつでいくらでも変わっていくものじゃないだろうか、人生なんて。
誰が将来を見とおせましょうか。誰が、将来、まちがいのない道などというものを選びとれましょうか。将来のことを考えたら、誰も自信がもてないのが当然であります。思うに、私たちはなにか行動を起すばあい、「将来」ということに、そして、「幸福」ということに、あまりにこだわりすぎるようです。一口でいえば、今日より明日は「よりよき生活」をということにばかり、心を用いすぎるのです。その結果、私たちは「よりよき生活」を失い、幸福に見はなされてしまったのではないでしょうか。
それなら、ここに、もう一つ別な生きかたもあったのだということを憶い起してみてはどうか。というのは、将来、幸福になるかどうかわからない、また「よりよき生活」が訪れるかどうかはわからない、が、自分はこうしたいし、こういう流儀で生きてきたのだから、この道を採る――そういう生きかたがあるはずです。いわば自分の生活や行動に筋道たてようとし、そのために過ちを犯しても、「不幸」になっても、それはやむをえぬということです。(略)「将来の幸福」などということばかり考えていたのでは、いたずらにうろうろするだけで、どうしていいかわからなくなるでしょう。たまたまそうして得られた「幸福」では、心の底にひそむ不安の念に、たえずおびやかされつづけねばなりますまい。それは「幸福」ではなく「快楽」にすぎません。


つまりは「運命愛」(ニーチェ)なのだ。
人間における偉大さを言い表す私の定式は、運命愛である。すなわち、ひとは、何事であれ現にそれがあるのとは別なふうであってほしいなどと思ってはならないのであり、しかも、将来に対しても、過去に対しても、永遠にわたってけっしてそう思わないことである。やむをえざる必然的なものを、ただたんに耐え忍ぶだけではなく、ましてやそれを隠したりせずに――実は理想主義的などというものはことごとく、やむをえざる必然的なもののまえに立てば嘘っぱちであることが分かるのだが――むしろ、やむをえざる必然的なものを愛すること、である……


いいことも悪いことも、どちらも自分が選んだ結果としてある。正しくても間違いでも、自分はこの道を行こう――そんなふうに覚悟をもって喜ばしく生きている人には、きっと未来にいいことが待っていると思う。どんなときでも希望を失わずに生きること。希望するということのうちに、すでに希望はある、そんなふうに書いたのはアランだった。「失敗すれば失敗したで、不幸なら不幸で、またそこに生きる道がある」。そう言いたいがためにこの本を書いたのだ、と著者は「あとがき」で述べている。一部、時代の懸隔を感じる部分もあるけれど、現代でもじゅうぶん通用するよい本だと思う。人の営みへの謙虚さを求めるような記述のトーンが好ましい。




4480034161私の幸福論 (ちくま文庫)
福田 恒存
筑摩書房 1998-09

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