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zoom RSS 『デパートを発明した夫婦』 鹿島茂

<<   作成日時 : 2014/08/18 00:00   >>

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欲望と消費社会。

19世紀前半のフランスでは道路が整備されておらず、馬車は一部の富裕層のみが利用できるものだったので、庶民が買い物できる場所は近所の個人商店しかなかった。個人商店には暗黙の規則があって、客は一歩店に足を踏み入れたが最後、何も買わずに出て行くということはできなかった。店内は暗く、商品の展示はなく(客が望みをいうと店員が奥から商品を持ってくる)、客へのサービスなどという概念は存在しない。そのうえ商人はできるだけ高値で売りつけようとしてくるので客は値段の交渉もしなくてはならず、だから庶民にとって買い物は楽しいものではなく、「いやいやするもの」だった。

しかし王政復古期後半になって、パリにマガザン・ド・ヌヴォテ(流行品店)と呼ばれる新しいタイプの商店が登場すると商業革命が起きる。マガザン・ド・ヌヴォテは「明るくて大きなショー・ウィンドー、建物の三、四階までを使った広々とした店内、棚にきちんと整理された色とりどりの布地や衣服、そして、それを効果的に演出する眩いばかりの照明など、すべての面で、まったく別種のコンセプトに基づいたレイアウト」を打ち出した。歩道が整備され、低価格の乗合馬車の運行が始まり、庶民が遠くまで買い物に行けるインフラの整ったことが、新しいタイプの商売――近所の顔見知りではなく不特定多数の客を相手にするより大規模な商売――を可能にした。この商業革命の時期に、アリステッド・ブシコーという青年がパリにやって来る。

マガザン・ド・ヌヴォテの店員として働きはじめた彼は、そこで展開される新しい商売の方法論に注目する。店を目立たせ、店内を広くして客に開放感を与える。ビラを配って多数の客に宣伝する。また、それまで主流だった付けか長期手形による販売方式を現金販売に変えて資本の流動性を高める。ブシコーは売り場主任に昇進し、1835年にマルグリットという商才のある女性と結婚する。二人はともに勤勉に働き、堅実に蓄えた。そして1852年、夫婦に転機が訪れる。ブシコーはマガザン・ド・ヌヴォテ<ボン・マルシェ>の共同経営の話をもちかけられ、それまで蓄えてきた金を出資し独立する。

1852年のフランスはクーデターに成功したナポレオン三世による第二帝政開始の年だった。ナポレオン三世は金融資本の育成、鉄道や万博など国家的プロジェクトの導入、株式会社設立の簡素化など「高度成長を狙った拡大経済政策」を打ち出す。この経済成長の波に乗ることができたのはブシコー夫婦にとって幸運だった。ブシコーは、入店自由の規則、定価明示、現金販売、返品可などの販売方式を徹底し、さらに、商品を現地で大量調達することでマージンを価格から割り引き、薄利多売方式を推し進めた。しかし薄利多売方式では商品の回転率を上げる必要がでてくる。よその半額で売るのなら、回転率はよその倍にしなくてはならない。それでも不良在庫は必ず出る。これを長く抱えずにすむようブシコーが考えたのがバーゲン・セールだった。さらに彼は、一年のうちで売上が減る時期をなくすためにテーマを絞った大売り出しを実行した。この大売り出しという販売方法は当時画期的で、商業的に大成功を収めた。
バーゲンの終わった一月下旬のある寒い日、売り上げの落ち込みを回避する方法はないものかと思案しながら窓の外の冬景色をぼんやりと見つめていたブシコーは、空から降ってくる粉雪に目をとめた。その瞬間、「白」という言葉が頭にひらめいた。
業界用語では、白(ブラン)とは、リンネルや綿布などの白生地を使ったワイシャツ、ブラウス、下着、シーツ、タオル、テーブル・クロスなどのことを指す。ブシコーは、暮れの大売り出しと年頭のバーゲンのあと、春物を売り出すにはまだ寒いこの時期に、季節商品とは関係の薄いこの「白物」を集中的に売り出すことを思いついた。かくして、二月の初め「エクスポジシオン・ド・ブラン」と銘打った「白物」の大売り出しが始まった。それは、エクスポジシオン(展覧会)というにふさわしい、ありとあらゆる白生地商品のオンパレードで、店内の多くの売り場がこの商品の展示のために使われ、店内はまさに白一色の銀世界と化した。


十九世紀にはまだろくな洗剤もなく、また洗濯方法も中世とさほど変わらぬ原始的な方法に頼っていたので、真っ白なワイシャツや下着を身につけているということは、当時の人々にとっては最高の贅沢だった。そのため、<ボン・マルシェ>の白物セールは、良質の白物を奉仕値で手に入れることができるということで、パリ中の、いやフランス中の人々にセンセーションを巻き起こした。

現在、実際にその季節の衣服が必要になるよりも何ヶ月か先に売り出すのが「シーズン先取り型」のデパート商法として当たり前になっているが、これもブシコーが始めたことだった。それとは別に、これは余談になるが、当時のフランスでは入浴は普及しておらず清潔は下着を頻繁に交換することでしか保たれなかったが、下着自体が高価な代物だった(『明日は舞踏会』)。上下水道の整備が遅れていたので、洗濯はもっぱら洗濯屋に頼っており(洗濯屋の仕事ぶりはゾラの小説『居酒屋』に詳しい)、生活費のうちこの洗濯代が占める割合は馬鹿にならなかった。

店にとってバーゲン・セールは対象商品を売ることが目的なのではなく、それ目当てできた客に別のものも一緒に買ってもらうことを目的としている。セールはいわば集客のための餌。しかしブシコーは、ただ売りさえすればいいとは考えていなかった。ブシコーが経営者として優れていた点は、短絡的な儲け第一主義に走らず、長期的な視野で商売を捉えていた点にある。<ボン・マルシェ>の返品可能という販売形式は、店と客とのあいだに信頼関係を築いた。ブシコーは、昔の個人商店のような押し売りを決して店員に許さず、にこやかに誠意をもって客に対応することを義務づけた。この真面目な商売方法によって客は店を信頼し、通うようになる。デパートにとっては「同じ客に何度も足を運んでもらうようにすることこそが、もっとも大切な財産である以上、たとえ、返品による損害が出ても、それと信頼を秤にかければ、客の信頼を得ることのほうがはるかに重い、つまり長い目で見れば、そのほうが儲かると」ブシコーは判断したのだ。

ブシコーはまたデパートの箱にも強くこだわった。長い中断期間を経て1887年に完成する<ボン・マルシェ>の新館は、鉄とガラスを機能的に用いた新しい建築様式で建てられた(工事を担当したのは若きギュスターヴ・エッフェルだった)。鉄骨の使用によって天井を広大なガラスホールにすることが可能になり、そこから一階の吹き抜けに降り注ぐ眩い陽光は店内および無数の商品を包み込む。光のスペクタクルによって演出された<ボン・マルシェ>はもはやデパートの枠を越えた、今日のわれわれにとってのディズニーランドのような夢と興奮の劇的空間へと変貌した。ディスプレイは単なる商品の陳列ではなく、客を驚かせ楽しませるショーになる。もはや買い物は必要のためにするものではなくなった。それは娯楽になったのだ。

買い物は楽しい。しかし商品のもつオーラに頼っているだけではいつか客は飽きてしまうだろう。そこでブシコーは、買い物の指針になるライフ・スタイルを提唱することを思いついた。社交を楽しみ、シーズンになれば海水浴や湯治に出かけ、テニスやサイクリングなどのスポーツを愛好する――そういう生活がアッパー・ミドルの生活だと発信し、そういう「豊かな暮らし」に必要なドレスや家具や食器などはすべて<ボン・マルシェ>に揃っていると宣伝した。結果、「ワンランク上の暮らし」に憧れる中層のブルジョワジーたちは、熱心にブシコーが宣伝する品物を買い求めるようになった。ここで重要なのは、本当にアッパー・ミドルに属している人々は<ボン・マルシェ>などで買い物するような層ではなかったということだ。<ボン・マルシェ>の顧客層はそれより下の階級の人々(主に第二帝政期に上昇をとげた中層のブルジョワジー)、「願望として、あるいは意識の上だけでアッパー・ミドルと思いこんでいる階層」の人々だった。彼らに、よい暮らしとはこういう暮らしだと広告イメージを通じて教えてやり、欲望を喚起することを思いついたのがブシコーの天才だった(「より良き生活=<ボン・マルシェ>での買い物」という刷り込み)。
すなわち、理想的なアッパー・ミドルの生活を隅々にいたるまで実現するには、これこれの家具や食器を揃え、これこれのカジュアル・ウェアを身につけ、これこれのヴァカンス用品を購入しなければならないというように、具体的なライフ・スタイルを中産階級の消費者に教育してやる必要があるのだ。なぜなら、彼らはまだ何を買うべきかを知らず、しかも、それが買うことができるのも知らないからだ。消費者に、到達すべき理想と目標を教え、彼らを励ますこと、これが<ボン・マルシェ>の、ひいてはデパートすべての任務となる。


社会の上層部に何か新しい習慣行動(プラティック)が出現すると、<ボン・マルシェ>は自ら通俗解説者の役割を買ってでて、その規範と努力目標を中産階級に手ほどきし、本物にかぎりなく近い廉価品を取り揃えて、少しでも現実を夢に近づける手助けをしてやったのである。人間が理想の実現という錦の御旗には弱いことを彼は熟知していたのだ。

今日でも製品の宣伝に有名人(セレブ)を起用するのは上記と同じ理由のためだろう。芸能人の誰それの行きつけの店、海外セレブの誰それが愛用の一品、そういう宣伝文句に弱い人は少なくない。イメージによって消費者の欲望を喚起して商売に利用する「欲望喚起装置としてのデパート」がここに誕生した。<ボン・マルシェ>はやがて集客のために無料のビュッフェを設け、清潔なサニタリー・スペースを作り、カタログによる通信販売を始める。どれも現代のデパートがやっていることの先駆けである。

商売のみならず、組織管理でもブシコーは優れた手腕を発揮した。店員の給料を歩合制にして必死に販売するようにし(しかし昔の個人商店のような押し売りは絶対に禁じた。そもそも返品可なので押し売りをしても意味がない)、昇進システムを導入して労働意欲を引き出した。福利厚生制度や社員教育に力を入れ、従業員の満足度や連帯感を高める努力も怠らなかった。デパート店員は無学な下層労働者ではない、販売のプロフェッショナルであり、態度やふるまいは人々の尊敬に値する紳士淑女であるという意識改革を従業員たちに促し、外部に向けて積極的に喧伝して、デパート店員のステータスを格上げすることにあらゆる手段を用いた。中層ブルジョワジーに物を売る店員が下層の意識でいたのでは商売に不都合だと考えたからだ。
ひとことで言えば、ブシコーのステイタス格上げ作戦により、衣料品店の店員は、高利貸しの手代が銀行員に、馬車屋の帳付けが鉄道会社社員にそれぞれ変身したのと同じ経路をたどって、デパート社員へと変貌をとげ、近代社会最初の第三次産業の中間層、すなわち「ホワイト・カラー」の一翼を形成することになったのである。この意味では、ブシコーは、消費者を「発明」したばかりではなく、「ホワイト・カラー」も発明したのである。


「ブシコーの発明したデパートが、いまの西欧社会のような高度産業社会を作ったのである」。著者は本書をそう結ぶ。ブシコーの偉大さは、なんといっても「より豊かなハイ・ライフ」という目標を設定してやって、そのための消費を消費者に促したその戦略性にあるだろう。われわれはもはや商品そのものを買うのではない、その商品が象徴しているイメージを買っている。



4061490761デパートを発明した夫婦 (講談社現代新書)
鹿島 茂
講談社 1991-11-18

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18世紀の思想家サン=シモンは、産業による利益追求こそが人類の幸福をもたらすという産業信仰をその思想の基礎に据えていた。彼の夢の地上的な実現こそがデパートにほかならない。相互扶助と利益追求を掟とする「新しい教会」とは株式会社である。
4122037581パリ・世紀末パノラマ館―エッフェル塔からチョコレートまで (中公文庫)
鹿島 茂
中央公論新社 2000-12

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われわれには、他人と異なっていたい、他人より上にいたいという願望がある。消費はその願望に奉仕する。
4938661829差異と欲望―ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む
石井 洋二郎
藤原書店 1993-11

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