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zoom RSS 『谷間の百合』 バルザック

<<   作成日時 : 2014/10/05 00:00   >>

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愛の渇き。

貴族の家に生まれたフェリックスはなぜゆえにか両親から疎まれ兄姉から蔑まれて成長する。子供ゆえの無邪気さは悪意と誤解され、寄宿学校に進めば手紙一通もらえず小遣いも与えられない。いい成績をとったので表彰されることになり、その旨を伝える手紙を出しても返事はこず、結局両親は表彰式の当日姿を見せない。そんなつらい身の上のフェリックス青年は、二十歳にもなって初めて舞踏会に参加する。これまで勉強一筋だった彼は踊りの型を知らず、気のきいた会話をするセンスももっていなかったから周囲から浮いてしまう。半ばふてくされて隅の長椅子に座っていたところ、彼の隣に一人の婦人が腰を下ろす。例のバルザック的な粘りつくような描写は省略して、彼女は「うっすらとばら色を帯び」た肩をもち、「繻子のような肌」をしていた。フェリックスは憑かれたか酔ったようになって、突然見知らぬその女の肩に口づけすると、大胆過ぎるふるまいに相手は驚き、怒りを抑えながらその場からすぐに立ち去る。彼女がどこの誰であるのかは知れない。舞踏会から帰ったのち、あの美しい人の面影が去らず、沈みがちになった息子を見て、母親は彼を田舎で養生させることを思いつく。「エメラルドの杯」のような美しい谷間のある田舎、そこで偶然にも、フェリックスは舞踏会で出会ったあの美しい肩の持ち主と再会する。彼女の名はモルソフ夫人(あるいはアンリエット)、二人の子供の母親で、フェリックスより六歳年長だった。夫人は美しかった。しかし彼女の夫は心を病んでいて、それが彼女から幸福を奪っていた。一家の平和がかろうじて保たれていたのは夫人の忍従によっている、知遇を得てしばしば通うようになったフェリックスはモルソフ家の事情を見抜く。互いの生い立ちを語り合えば、ともに苦いものだったと知れて、それが青年と夫人を接近させるきっかけになった。しかし地上にいながら天上に生きているような彼女は、フェリックスの求めに決して応じない。母と子のように、姉と弟のように「聖らかに」愛し合おう、それが彼女の返事だった。フェリックスにはもどかしかった、しかしそれ以上求めても詮無いと、信仰篤い彼女をよく知る今なら理解できた。叶わない想いは結果的に彼の恋を延命させる。しかし若い血は柔らかな肌を求めてやまない。宮仕えをするようになったフェリックスは、イギリスから来たダドレー夫人と深い仲になる。修道女のようなモルソフ夫人とは正反対の、愛に奔放な女。好いた男のためならば、別れた夫とのあいだにできた子供を捨ててもいいという。そんなに愛されていてもなお、フェリックスの脳裡からモルソフ夫人――初恋の人――の幻影は消えない。ふとしたきっかけから久しぶりに「谷間」を訪れれば、彼女の応対は冷淡で、どうやら彼と彼の愛人の噂を知っている様子だった。それは嫉妬だったのか。問うても夫人の返答は相も変わらぬ浮き世離れしたようなもの。二人はまずい別れかたをして、もう一度フェリックスが「谷間」へ行ったときにはすでに夫人は死の床についていた。二人は和解し、まもなく夫人はこの世を去る。フェリックスは愛する人を失い、「谷間」も失い、ダドレー夫人とも仲違いして、現在も独身を通している。

バルザックの自伝的要素の濃い本作(解説によると、モルソフ夫人と出会うまでのフェリックスの生い立ちはそのまま作者のものであり、夫人のモデルとなった女性も実在する)は、分裂を志向している不思議な恋愛小説と見える。主要なモチーフとなるのは青年と人妻の叶わない恋。一方は強く焦がれ、一方は拒んでいる。しかし拒んでいる側とて本心では惹かれており、惹かれるからこそ却って恐れて身を引いている。夫人は女であること以上に、既婚者であり、母であることに自身のアイデンティティを置いている。宗教は彼女を支える杖である。青年は、彼女が容易に手に入らないからこそますます欲望をかきたてられ、彼女に執着する。「身体を許しあわぬ恋は、かえって欲望を激しくかきたてるがために持続するのです」。しかし、やがてその甲斐なさは苦痛に変わり、渇きを癒やすためにほかの誰かを求めることになる。フェリックスが相手にしたのは、自身のアイデンティティを母であることではなく女であることに置く、モルソフ夫人とは正反対な質の女、ダドレー夫人だった。自分は愛したのではない、砂漠で喉が渇いただけなのだ、フェリックスは自分の情事をそう弁明(?)するだろう。モルソフ夫人は「魂の伴侶」、ダドレー夫人は「肉体の愛人」だという(「肉体の愛と聖なる愛の相克」、「私は天使と悪魔とを同時に愛していたのです」とも彼は述べる)。つれない仕打ちをすれば、若いフェリックスはいずれ別の相手を見つけるだろうと予想できたのに(「若いご婦人がたはおさけなさい」という彼女の忠告は二重に裏切られる)、いざ彼がそうなってしまうとモルソフ夫人は面白くない。別人のように冷淡になって、もはやフェリックスに、彼だけに許したアンリエットという名で呼ばせることを許さなくなる。彼女の怒りようは、聖女のような彼女が、本当にはごく普通の、感情豊かな女であることを示している(だからこそ彼女は身を固く持さなくてはならなかったのだが)。死の床で発せられる「肉の叫び」は、彼女が常に、貞節と欲望という相反する感情に引き裂かれていたことを教えてくれる。

夫人の死によってフェリックスの青年時代は終わる。しかし『谷間の百合』という小説はまだ終わらない。青年と人妻の恋物語は、もはや青年ではなくなったフェリックスが、現在の愛人ナタリー・ド・マネルヴィルに宛てた書簡形式で述べられている。そして小説が終わるためには、ナタリーからの、決して長くはない返信を待たねばならない。熱い官能と切ない郷愁を込めながら、ときに辟易するような感傷に傾きがちなフェリックスの回想は、ナタリーの批判によって相対化される。あなたはなぜ、今の恋人の前で昔の女の思い出話をするなんて野暮ができるのか、自分はモルソフ夫人ともダドレー夫人とも違うし、そのどちらにもなるつもりはない。ナタリーの反応は現在の愛人として当然のものだろう。「最初の夫のことをしきりと口にして、二度目の夫の鼻先に、前の夫の長所を投げつける、あの未亡人のようなまねだけはおよしなさいませ」、「あなたは恋の喜びも、もう死人相手にしか味わえないお方です」。わたしはあなたの母親役を務める気はない、そう嘲っているようにも見える。良妻賢母の鑑であるようなモルソフ夫人にフェリックスが惹かれたのは、あるいは彼が実の母親から冷たく扱われた渇きを癒やしたいと無意識のうちに望んでいたからかもしれない(中盤の、モルソフ夫人がフェリックスにする忠言は母親が子供にするそれである)。

フェリックスの愛はモルソフ夫人とダドレー夫人に分離する。
さらにモルソフ夫人への愛は、女と、母性への思慕に分離する。
モルソフ夫人は女であることと家庭の主婦であることのあいだで葛藤する。
ダドレー夫人は誘惑者であると同時に、ブルジョワ的価値観からの自由を象徴する(良妻賢母という女性のタイプは当時のブルジョワジーたちが共有した理想だった)。
モルソフ夫人はフランス人、ダドレー夫人はイギリス人(「産業革命をフランスに先んじてなし遂げ、安定した民主政体を早々に確立し、植民地政策においてもつねに優位を確保していたイギリスは、フランスにとっては憎たらしい先進国だった」――野崎歓『フランス小説の扉』)。
フェリックスの視点で語られる物語は最後にナタリーの批判によって相対化される。

以上の要素が、分裂を志向する小説と見た理由である。夫人の死によって崩壊していく「谷間」とモルソフ家とか、死にそうでありながら死にそうもないモルソフ伯爵とか、大人になって豹変するモルソフ家の子供たちとか、明るい前半と重苦しい後半などの要素は、フェリックスの恋のゆくえと並置されることで、「時」の確かさと儚さを示して情緒に富む。死の床でモルソフ夫人に生への執着を口にさせるバルザックは残酷な小説家である。同時に、最後の最後で自らの体験の反映であるフェリックスの恋を辛辣に批判するのだから理性的な小説家でもある。血気盛んな若者は物事を正しく見られない(フェリックスは何度もモルソフ夫人を勘違いする)。この小説の結びは「過ぎ去った時間を遠く押しやると同時に、人生とはとどのつまり、当人がそう思いこんだものでしかないことを示すためのものと言い得よう」、訳者はそう述べている。もしこの小説がフェリックスの語りのみで成っていたとしたら、少々青臭くてやりきれないものになっていたのではないだろうか。読んでいる最中、フェリックスの身勝手さやおめでたさにうんざりする読者もきっといるだろう。そういう読者の心情をナタリーは代弁してくれる。同時に彼女は、この小説において唯一、自分の声を発している女性であることを見落としてはいけない。モルソフ夫人にせよダドレー夫人にせよ、彼女たちの発言はすべてフェリックスの手紙に書かれたことであって、彼女たちの言動はすべてフェリックスの解釈というバイアスがかかっているうえ、彼女たちの発言もすべてフェリックスの筆を通してしか伝えられない。いわば彼女たちは声を奪われている。フェリックスが生来のおめでたさから、あるいはロマンチシズムに傾いて、自己に都合良く事実を改変していないという保証はない(「またご自分のこと、いつでもご自分のことばかり」――傍点つきで強調される、モルソフ家の娘からフェリックスに向けられる非難は、彼がどういう人間であったかをよく伝える)。その意味で、ナタリーの、いい気なものだと男に呆れ、突き放す別れの手紙は、本作唯一の女の生の声として貴重なものだろう。小説を結ぶナタリーの手紙によって、『谷間の百合』という恋愛小説は奥行きを増した。彼女が相対化するフェリックスの恋物語は作者自身のそれでもあるから、作者の意識が作中のフェリックスとナタリーとに分裂していることを意味してもいる。ここにも分裂の特徴が見られるだろう。

「『谷間の百合』に気をつけること」。『感情教育』を書くにあたってフローベールはそう記した。年上の既婚女性と青年の、成就せぬ恋の物語。フレデリックとアルヌー夫人の恋は、一房の白髪を形見にして、直接の交渉はないまま残酷な終わりを迎えるだろう。モルソフ夫人がフェリックスに渡す一房の黒髪は、恋の葛藤に泣き明かした夜の形見だった。彼ら二人も、直接の交渉はないまま関係が終わるとはすでに述べた。ともに想い合っていながら、手にふれる機会すら多くなかった恋。フェリックスが相手の髪にふれるのはただの一度きり。彼らがもっとも接近したのは、初めて出会った舞踏会の、あの肩への接吻の瞬間だった。そのときはまだ互いを誰と知ることもなく、偶然によって再会してのちは、たとえどれほど言葉を重ねても、初めて出会った夜ほどに近づくことは遂にない。「私には自分の苦しみから、夫人の苦しみが察しとれました」。互いにつらい境遇を打ち明ければ親しみは増した。気分を共有するには短い一言があればそれで足りるほどの仲になった。それなのに身体のほうは一向に近づかない。通常とは逆の経過を辿って終焉に至る恋。「あなたが私にあやまちをおかさせる大きな原因になられたことはたしかです。でも同時にあなたは、私に女のつとめをはたさせる大きな力でもあったのです」。最後の手紙に書かれていた文言を真率さととるか、矛盾ととるか。もはやフェリックスにそう呼ぶことを許さなかった「アンリエット」の署名が、手紙の長い文章以上に、書いた人の心情をよく表しているように思える(死の床での彼女の言葉――「昔通りにね、フェリックス」)。死を間近に控えながら、青年が面会するときには「白いドレスを着」、部屋中に花を飾り、「病床につきもののあのおぞましい器具類」の一切を片付けて決して見せようとはしなかったモルソフ夫人。おそらくは世界文学のなかで屈指の恋愛小説であるヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』のヒロインと同じく、いちばん覚えていてほしい姿だけを、彼女は相手に見せたかったのだ。
「あなたは僕の思いが優しく愛撫し、僕の魂が口づけする、人の姿を借りた美しい花なのです」と私は言いました。「いつもけがれなく、茎の上に凛々しく頭をもたげ、純白で誇り高く、一人はなれて咲く香り高い僕の百合なのです」

もはや地上のものというより天上のものといったほうがいいような、浮世離れした恋。フェリックスに限らず、人は恋に落ちれば対象を理想化する。「永遠の百合」であってほしいとフェリックスが願ったから、夫人はそうあり続けた。それは皮肉にも二人の接触を禁じてしまう結果になったけれども、結ばれなかったからこそ、遂に美しい理想は美しいまま保持され、幻滅によって死なずに済んだ。彼ら二人の関係は「残酷な冗談」だったのか。いや、もしかすれば恋という人の営み自体が、矛盾を孕んだ「残酷な冗談」でしかありえないのかもしれない。



停滞し、迂路を辿るだけであるのに、ぐいぐい読ませて、読了後は厳粛な気持にさせる『谷間の百合』は、これまでに読んできたバルザックのなかでもっとも好みだった。付箋だらけにして、もっともっと思ったことは多かったのに、この程度の記事にしかまとめられないのが少し悔しい。
4102005013谷間の百合 (新潮文庫 (ハ-1-1))
バルザック 石井 晴一
新潮社 1973-02-01

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野崎歓さんのこの本の、「バルザック悶々――『谷間の百合』」の章には教えられるところが多かった。スタンダール、ネルヴァル、モーパッサンを扱った章も楽しく読んだ。
456072119Xフランス小説の扉[U1119] (白水Uブックス)
野崎 歓
白水社 2010-11-23

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