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zoom RSS 『詩という仕事について』 ボルヘス

<<   作成日時 : 2015/05/05 00:00  

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詩の探求。

1960年代末にハーバード大学で行われたボルヘスの詩学講義。テーマは「詩という謎」「隠喩」「物語り」「言葉の調べと翻訳」「思考と詩」「詩人の信条」。彼が詩について語るとき、書かれた詩(文学ジャンルとしての詩)を指しているのか、それが喚起する情緒(ポエジー)を指しているのかを注意しないと混乱する。

はじまってすぐに、ボルヘスは詩を読むことの奥義を述べる。曰く「詩を汲む」。自分はこれまで数多の書物を読み、腑分けし、書き、そして楽しんできた。そして思うのは、文学とは読者各人が再発見(再創造)していくものであるということだ。彼によると、生きることは詩から成り立っている。詩とはわれわれの日常にある、ありふれたもの。そして書物は、詩に達するための単なるきっかけに過ぎない。書物とは文字(=生命なき記号)の集合体であり、あくまで物理的なモノでしかない。しかしそれを心ある読者が読めば、書かれている言葉たち(言葉自体は単なる記号であるから、それら言葉の陰に隠れていた詩)は息を吹き返し、「世界の甦り」を体験するだろう。「世界の甦り」と文学的に表現されると困惑してしまうが、要は美の陶酔のことだ。
つまり美は、常にわれわれの周りに存在するのです。ある映画のタイトルとして、われわれのもとを訪れるかもしれない。あるポピュラー・ソングのかたちをとって、やって来るかもしれない。偉大な、あるいは有名な作家の仕事のなかでお目に掛かるかもしれないのです。

書物とは美の契機であり、詩とは美を起動する装置である。ボルヘスによる詩の定義――「詩は、巧みに織りなされた言葉を媒体とする、美なるものの表現である」。

読書は人間の想像力を刺激する。書かれた言葉によってイメージを喚起し、それが読者の感情を揺さぶる。文学においては直截的な断定より仄めかす暗示のほうが読者に訴える力がある。「死ぬ」より「眠りに就く」のほうが詩の表現として相応しい。なぜか。人間の心理は、断定されるとそれを否定しようとする傾向があるのに対し、暗示にはそれを解くために向き合う傾向がある(カフカの魅力は彼の暗示的な書法にかかっていると思う)。暗示のために詩が用いる手法が隠喩である。隠喩は二つの異なるイメージを結びつける。女性を花に喩える、生を夢に喩える、など。荘子は蝶になった夢を見た男の逸話を述べた。夢から覚めたとき、自分は蝶の夢を見ていた人間なのか、それとも人間になった夢を見ている蝶なのか惑う「胡蝶の夢」の逸話は隠喩のなかでも精妙なものを用いており、これが虎や鯨になった夢だったら趣のまったく異なるものになっていただろう。蝶には繊細で儚い印象があるから、生と夢というモチーフによく適っている。「死と眠り」「女性と花」「生と夢」「時と河」などはいまや一般的な隠喩のパターンである。

われわれは詩人というと抒情詩人をまず連想する。しかし詩の起源である古代ギリシア・ローマにおいては、詩人とは創造者を指し、抒情詩人のみならず物語の語り手も含まれていた。「人類のあらゆる声――抒情的な声、物思いに沈んだ声、憂わしげな声などだけではなく、勇気や希望に満ちた声――がそこに見いだされるような物語」、すなわち叙事詩の作者としての詩人。ボルヘスは古き叙事詩を三つ挙げる。まずは『イリアス』。ホメロスが歌った(彼は書いていないとされている)のは一人の男の怒りの物語である。アキレウスは決して陥落できない都市を攻め、その都市が陥落する前に自身が死ぬ運命にあるのを知っている。しかしわれわれは、身勝手に振る舞う大英雄よりも、間もない滅びを予告されながら、炎に包まれている都市を守る、ヘクトルをはじめとするトロイの男たちの勇姿に、胸打たれはしなかったか。ボルヘスは、この、運命に抗いながらも滅びゆく男たちが、『イリアス』の真の主題であるという。事実、古来より人々は勝利したギリシア人たちよりも滅びたトロイ人たちこそまことの英雄であると考えてきた。おそらくは「およそ勝利には縁のない尊厳が敗北にはあるからでしょう」。祖国の滅亡や家族との死別といった悲嘆のドラマは、有限の時を生きるわれわれに生の実相の何たるかを示す(暗示する)から、われわれは彼らに感動を覚えるのかもしれない。
続いて『オデュッセイア』。オデュッセウスの10年に亘る帰郷物語から、われわれは「われわれは流謫の身であること、真の家郷は過去にあること」などの観念を見出す。一方に航海の冒険もある。帰郷の物語としても冒険譚としても読める『オデュッセイア』は、「これまでに書かれた、あるいは歌われた、それは最良の物語でしょう」。
三つめは四書の福音書。福音書にも二通りの読みかたができる。一つは、「人類の罪をあがなう人間の、神の奇妙な物語」として。そしてもう一つは、「自分を神であると考えたが、結局、自分は単なる人間であることを、神――己れ一人の神――が自分を見捨てたことを知った人間、ひとりの天才的な人間」の物語として。
人間は多くの物語を必要としない。上で挙げた三つの叙事詩は何世紀にも亘って人類に満足を与えた。人々は飽きもせずそれらを繰り返し語り、聞き、音楽や絵画の題材とした。やがて叙事詩は小説という文学ジャンルを生む。ゆえに小説もまた詩だが、叙事詩と小説にはひとつ決定的な違いがある。その精神だ。叙事詩が描くのは英雄、しかし小説は典型的な人間、もっといえば人間の崩壊、その堕落を描くことを主眼としている。
これはわれわれを別の問題に直面させます。われわれは幸福をどう考えるのか? 敗北を、そして勝利を、どう考えるのか? 今日、人びとがハッピー・エンドを口にするとき、それは大衆への単なる迎合であるとか、商業上の適策の一つであると考えています。技巧的なものとして考えています。しかし何世紀にもわたって、人びとは本気で幸福というものを、成功というものを信じることができました。失敗に伴う本質的な尊厳を感得していながらもです。例えば、人びとが金羊毛(人類の古い物語の一つ)について書いたとき、読み手もしくは聞き手は最初から、宝物が最後には見つかるだろうと感じさせられているのです。
さて、今日では、仮に冒険が試みられたとしても、それは失敗に終わることをわれわれは知っています。(略)すなわち、われわれは幸福や成功というものを本気で信じることはできないのです。これこそが、われわれの時代の貧しさの一つであるのでしょう。私は、カフカが自分の著作が死後に焼き捨てられることを望んだとき、同じことを感じていたのだと思います。彼は幸福と成功の物語を書きたいと本心で願ったけれども、自分にはそれができないことに気づいていました。もちろん、彼はそういう物語を書き得たかもしれない。しかし人びとは、彼が真実を語っていないと感じたにちがいない。事実に関わる真実ではなくて、彼の夢についての真実ですけれども。

ボルヘスはその証左として『アスパンの恋文』や『城』における冒険の失敗を挙げる。ハッピー・エンドが技巧的な問題ではなく読者の精神の問題だというのは、現代の読者は小賢しくなり過ぎたというほどのことだろうか。イノセンスをなくしたというよりは、過去の歴史的経緯や現代世界の状況(政治的・経済的)が、楽観的な未来予測を許さなくなり、その影響が精神や感覚に影響を及ぼしているというのもあるかもしれない。現代の読者が過去の読者より賢明になったとはいわない。現代人のほうが、焚火を囲んで歌に聞き入っている聞き手よりも上等だと思うのは思い上がりでしかなく、歴史への畏敬の念を忘れて傲慢に陥り、しかもそれを円熟と勘違いしかねない危うさが現代にはあると思うから。醒めた目と意識で物語を分析できる理性と、ハッピー・エンドを信じられる心性に優劣はつけられない。この「現代の貧しさ」を反省することを主題に据えた小説の一つに、イアン・マキューアンの『贖罪』がある(「愛が成就しなかったことを信じたい人間などいるだろうか? 陰鬱きわまるリアリズムの信奉者でもないかぎり、誰がそんなことを信じたいだろうか?」)。

小説におされたとはいえ、叙事詩が滅びたわけではない。人びとはいまも叙事詩を渇望している、叙事詩は人間がもっとも必要とするものの一つである、そうボルヘスは述べる。現代(講演当時は1960年代末)ではハリウッドが人びとに叙事詩を提供し続けている。
(余談になるが、実際ハリウッドは1960年代までに叙事詩的な内容の古代史劇というジャンルの映画を大量に作っている。「ベン・ハー」、「キング・オブ・キングス」、「十戒」などは、みなハリウッド映画である。なぜアメリカ映画には聖書スペクタクルが多いのか、同じキリスト教国であるフランスもイギリスもイタリアも殆ど作っていないのに、という謎とその答えについては、瀬戸川猛資さんが『夢想の研究』という映画評論に書いている)

「十九世紀から生き延びてきた古風な人間」と自らを形容するボルヘスは、いまや小説は完全に袋小路に入っていると見ている。時間軸の移動やら複数の人物たちによる語りやら、そうした実験的なアイデアの行き着く先は、「小説はもはや存在しないとわれわれが感じるような時代でしょう」。しかし人間が物語を語ったり聞いたりすることに飽きることはありえず、短篇や物語は人類とともにあり続けるだろう。

詩の翻訳の問題は、詩(言語)の音楽性の問題と関連する。詩の翻訳は不可能、それは原典に対する裏切りであるのか(「翻訳者は裏切り者」というイタリアの諺がある)。また翻訳されたテクストは、原典に劣るものなのか。中世時代、ホメロスの叙事詩が翻訳されたとき、翻訳者たちは必ずしも正確に翻訳することを第一と考えてはいなかった。翻訳者たちの関心は詩作品そのものに向けられていた。
彼らは『イーリアス』や『オデュッセイア』に関心はあっても、瑣末な言葉の問題に注意を払わなかった。中世全体を通じて、人びとは逐語的な移し替えとしてではなく、再=創造される何ものかとして翻訳を考えていたのです。ある作品を読んで、自分の力の及ぶ範囲で、自分の物した言葉の既知の可能性のなかで、自分なりの作品を産んでいく、そうした詩人の仕事です。

再=創造としての翻訳あるいは改作。シュテファン・ゲオルゲが翻訳した『悪の華』のテクストは、ボードレールの原典よりも優れているとボルヘスは見る。ゲオルゲはボードレールよりも技巧に秀でていた。しかしボードレールの全人生というコンテクストなくして彼の詩を考えられないのに対して、ゲオルゲの場合はどうなるか。器用で、やや気取った二十世紀の詩人と見なすくらいのものだろう。

詩にとって意味は二義的なものである。われわれはある詩を読んだとき、その詩の意味を解くより先にその美しさを感じる。隠喩は多様な解釈を誘うが、優れた詩は、「それがどう解釈されるかという単なる事実を超えた美しさを備えている」。隠喩にせよ、翻訳にせよ、詩人はありふれた言葉を用いて異常な効果を生み出すことができる。ボルヘスによれば、言葉とはもともと魔術的なものだった。遠い昔、lightという単語が光り輝くように感じられ、darkという単語が暗く感じられた、そういう時代があった。辞書という、単語と定義の長いカタログを所有している現代のわれわれは、すべての単語は交換可能であると考えているが、単語はすべて自立しており、唯一無二のものである。言葉とは本来が魔術的なものであり、詩によってその魔術に引き戻される。

言葉とは語るためだけのものではない、それはまた音楽であり情熱でもある。ボルヘスはもはや表現というものを信じない。彼が信じるのは暗示だけである。
今の私は、表現なるものを自分はもはや信じていないという結論――これが結論では惨めな気もしますが――に達しました。私が信じているのは暗示だけです。結局のところ、言葉とは何なのでしょうか? 言葉は、共有する記憶を表す記号なのです。仮に私がある言葉を使えば、皆さんはその言葉が意味するものを、なにほどか経験することになる。そうでなければ、言葉は皆さんにとって何の意味も持たないわけです。私の考えでは、われわれは暗示することしかできない、つまり、読み手に想像させるよう努めることしかできない。

テクストを受け取った読み手は彼なりの受け取りかたをする。美しさを求める者はそれを見出し、意味を探る者はそれを見出すだろう。頭の回転が早い読者ほど、ひとつのテクストから多くのものを得る。物を書くという営みは、一種の共同作業であるとボルヘスはいう。書かれた作品は作者の手を離れ、読者各人が彼なりの仕方でそれを豊かにする。芸術品を楽しもうとする人は、その人なりに芸術家にならざるを得ない、とE・M・フォースターならばいうだろう(「文化の価値」)。そして読者であることの悦びは、作者であることの喜びよりも大きい。
読者の悦びは作者のそれより大きいと思います。読者はいかなる苦しみも不安も感じる理由がない。悦びを求めるだけなのですから。そしてその悦びは、あなたが読者であれば、頻繁に得られるのです。


音楽家は音を、画家は色を、詩人は言葉を操ってポエジーを創出する。ポエジーとは美の契機である。「美はあらゆるところに存在する、たぶん私たちの人生の一瞬一瞬にあると思います」(ボルヘス『七つの夜』)。文学(詩および小説)を読むことでわれわれはそれに遭遇する、ページの上で。そしてそれらに出会うたびに、もっと読みたいと思い、もっと生きたいと思う(「新たに美と幸福を意識するたびに私たちの心によみがえってくるあの生きたいという欲望」――プルースト『花咲く乙女たちのかげに』)。美とは幸福の約束、それを求めて本を手にする。




4003279255詩という仕事について (岩波文庫)
J.L.ボルヘス 鼓 直
岩波書店 2011-06-17

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『贖罪』。贖いとしての創作=現実の書き換え。ありえたかもしれない世界を創造すること。主題はとてもよいと思うのだが、ちょうどいま再読していたら執拗な文章にうんざりした。とくに第二部は全体的に冗長で耐えがたい。最終章は素晴らしい。映画(「つぐない」)はスピーディに展開するが、説明不足の箇所があるので原作を読んでいたほうが理解しやすい。

4102157239贖罪〈上〉 (新潮文庫)
イアン マキューアン 小山 太一
新潮社 2008-02-28

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