『嘔吐』 ジャン‐ポール・サルトル
孤独の発明。
新訳で再読。アントワーヌ・ロカンタンは30歳の独身青年で、港町ブーヴィル(架空の町)に滞在して、18世紀の侯爵ロルボンに関する本を書いている。金利収入で暮らしていける一種の高等遊民の彼は、図書館で会う「独学者」と短い会話を交わすか、居酒屋の女主人と情事に耽るほかには人付き合いがなく、執筆に時間をあてている。そんなある日、彼が海辺で小石を拾った瞬間、「甘ったるい、むかむかした気持」に襲われる。それは「手のなかの一種の嘔吐感」だった。この不快な感覚の探求が本書の主題のひとつとしてある。
まず彼は自身をとりまく物が存在である、ということを発見する。周囲にあるものすべてが存在している。そして物だけではなく自分自身もまた同じように存在している。この存在の意識が嘔吐感の原因だった。
ロカンタンはこの思索を更に進めて、存在とはすなわち「偶然性」なのだと悟る(「本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ」)。これは物だけではなく人間にもあてはまる。人間が存在しているのもまた偶然、すなわち人はみな「余計な者」である。
「存在は偶然である」という認識が嘔吐感の原因だったというのは、おそらくロカンタンの過去と関係している。彼はかつて世界中を旅した冒険家だった。アフリカ、中近東、アジア――そうした国々で危険な目に遭いながらも大胆に行動してきた過去は、彼にとっては誇りのようなものだった。彼にはまた、かつて交際していたアニーという変わった恋人がいて、彼女は、ある状況のなかでそれにふさわしい言動を取ることしか許さない――まるで芝居のように――「完璧な瞬間」の創造に憑かれていた(二人が別れた原因もそこにあった)。「冒険」も「完璧な瞬間」も、どちらも人生を意味づけるものだろう。けれどもロカンタンが新たに得た認識は、一切は偶然であるというものだった。いわばこれまでの信条を否定する発見であり、だからこその嘔吐感だったのだろう。すべて存在は偶然であるのなら、「冒険」も「完璧な瞬間」もたわ言、意志などは単調なまま終わりなく続く日常の気休めでしかない。
そう、すでにアニーは自分の「完璧な瞬間」の創造が挫折に終わるしかないことを悟って、かつてのみずみずしさを失った敗残の醜い姿で数年ぶりにロカンタンの前に現れたのだった。自分もまた、彼女のようになるしかないのか、苦しみを払えず、徒労感を覚えながら彼は馴染みの居酒屋に入り、ジャズのレコードに耳を傾ける。流れるサクソフォンの歌は苦悩を乗り越えるよう彼に語りかけてくるように思われた。「ただ、在る」だけの純粋な歌が流れていく。その曲を聴きながらロカンタンは考える、「存在を越える何かを見抜く」こうした喜びの創造が自分にも可能だろうか、と。
ロカンタンが文学の創造、すなわち「一篇の小説」を執筆することを決意して小説は終わる。やや唐突と思えなくもない音楽による啓示からの作家誕生という結末にプルーストの長篇小説が連想される。訳者によると、サルトルはプルーストに熱中していた時期があり、彼からの脱却を――管理人には何のことやら分からないフッサールの現象学を武器にして――本作で試みたのだという。地名に投影されるイメージや時間の不可逆性への言及などはプルーストとよく似ている。
嘔吐感を訴えるロカンタンは病者なのか。管理人にはそうとは思えない。神経症であるらしい彼の嘔吐感の叙述には切実さが欠けており、単なる観念の産物の域を出ていない印象を受ける。ゲオルク・ビューヒナーの「レンツ」における叙述そのものを変容させていくような狂気の描写、あるいはプルーストにおける死の強迫観念(語り手が聞く「病気が頭のなかで行ったり来たりする足音」――「ゲルマントの方」)、これらの叙述が孕む切迫感と比較すると、ロカンタンの嘔吐感はなんと作り事めいて見えることか(彼は不眠や不能や食欲不振を訴えない)。仮に病気だったとしても簡単に治るのではないだろうか。もっとも、本作における嘔吐感とはあくまで仮構の象徴でしかなく、リアリティ云々という指摘は見当違いなのかもしれないが。
訳者は1938年に発表された本作について、「いささかも古びることなく、今日の文学としても立派に通用する刺激的な作品である」と述べている。何に着目して読むのかという点にすべてはかかっているのだろうけれども、管理人には同意できない。存在の偶然性といったところで、必然だろうが偶然だろうが在ることに変わりはない。それならあとは主体の意志または解釈次第ということでもういいではないかと思ってしまう。嘔吐感の探求のほかに、「書くこと」と「生きること」の乖離や、ブルジョワ批判などの要素も含まれてあるが、それらにも興味を覚えない。時を空けて二度読んでも面白くないのだから縁がないのだろう。自伝『言葉』のほうが管理人には好ましい。
新訳で再読。アントワーヌ・ロカンタンは30歳の独身青年で、港町ブーヴィル(架空の町)に滞在して、18世紀の侯爵ロルボンに関する本を書いている。金利収入で暮らしていける一種の高等遊民の彼は、図書館で会う「独学者」と短い会話を交わすか、居酒屋の女主人と情事に耽るほかには人付き合いがなく、執筆に時間をあてている。そんなある日、彼が海辺で小石を拾った瞬間、「甘ったるい、むかむかした気持」に襲われる。それは「手のなかの一種の嘔吐感」だった。この不快な感覚の探求が本書の主題のひとつとしてある。
まず彼は自身をとりまく物が存在である、ということを発見する。周囲にあるものすべてが存在している。そして物だけではなく自分自身もまた同じように存在している。この存在の意識が嘔吐感の原因だった。
私は理解した。<吐き気>は去らなかったし、これがそうすぐ去って行くとは思われない。しかし私はもう<吐き気>を耐え忍んでいるわけではない。それはもはや病気でもなければ、一時の気まぐれな発作でもない。私自身なのだ。
ロカンタンはこの思索を更に進めて、存在とはすなわち「偶然性」なのだと悟る(「本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ」)。これは物だけではなく人間にもあてはまる。人間が存在しているのもまた偶然、すなわち人はみな「余計な者」である。
「私たちはみんなここにいるかぎり、自分の貴重な存在を維持するために食べたり飲んだりしているけれども、実は存在する理由など何もない、何一つない、何一つないんです」
「存在は偶然である」という認識が嘔吐感の原因だったというのは、おそらくロカンタンの過去と関係している。彼はかつて世界中を旅した冒険家だった。アフリカ、中近東、アジア――そうした国々で危険な目に遭いながらも大胆に行動してきた過去は、彼にとっては誇りのようなものだった。彼にはまた、かつて交際していたアニーという変わった恋人がいて、彼女は、ある状況のなかでそれにふさわしい言動を取ることしか許さない――まるで芝居のように――「完璧な瞬間」の創造に憑かれていた(二人が別れた原因もそこにあった)。「冒険」も「完璧な瞬間」も、どちらも人生を意味づけるものだろう。けれどもロカンタンが新たに得た認識は、一切は偶然であるというものだった。いわばこれまでの信条を否定する発見であり、だからこその嘔吐感だったのだろう。すべて存在は偶然であるのなら、「冒険」も「完璧な瞬間」もたわ言、意志などは単調なまま終わりなく続く日常の気休めでしかない。
三年前、私はブーヴィルに乗りこんできた。そのときは、すでに一回戦に敗れていたのだ。しかし二回戦を試みようと思い、ふたたび負けた。つまり勝負に敗れたのだ。同時に私は、人が常に敗れるものであることを知ったのである。勝つと思っているのは<下種ども>だけだ。今となっては、私もアニーのようにするだろう、私は余生を送るだろう。食べて、眠る。眠って、食べる。そしてゆっくりと、静かに、存在するのだ、あの木々のように、水たまりのように、電車の赤い座席のように。
そう、すでにアニーは自分の「完璧な瞬間」の創造が挫折に終わるしかないことを悟って、かつてのみずみずしさを失った敗残の醜い姿で数年ぶりにロカンタンの前に現れたのだった。自分もまた、彼女のようになるしかないのか、苦しみを払えず、徒労感を覚えながら彼は馴染みの居酒屋に入り、ジャズのレコードに耳を傾ける。流れるサクソフォンの歌は苦悩を乗り越えるよう彼に語りかけてくるように思われた。「ただ、在る」だけの純粋な歌が流れていく。その曲を聴きながらロカンタンは考える、「存在を越える何かを見抜く」こうした喜びの創造が自分にも可能だろうか、と。
私も試みることができないだろうか――もちろんそれは音楽の調べではないだろう……そうではなく、別のジャンルで試みることはできないだろうか?……それは一冊の書物でなければなるまい。私にはほかに何もできないからだ。しかし、歴史の書物ではない。歴史、これは存在したものについて語る――しかし存在者は絶対に、他の存在者を正当化できない。(略)ほかの種類の本。どんな種類かは判然としない――しかし印刷された言葉の背後に、ページの背後に、存在しない何か、存在を越える何かを見抜くようなものであるべきだろう。たとえば、起こり得ないような物語、一つの冒険だ。それは鋼鉄のように美しく、また硬く、人びとに存在を恥ずかしく思わせるものでなければなるまい。
ロカンタンが文学の創造、すなわち「一篇の小説」を執筆することを決意して小説は終わる。やや唐突と思えなくもない音楽による啓示からの作家誕生という結末にプルーストの長篇小説が連想される。訳者によると、サルトルはプルーストに熱中していた時期があり、彼からの脱却を――管理人には何のことやら分からないフッサールの現象学を武器にして――本作で試みたのだという。地名に投影されるイメージや時間の不可逆性への言及などはプルーストとよく似ている。
嘔吐感を訴えるロカンタンは病者なのか。管理人にはそうとは思えない。神経症であるらしい彼の嘔吐感の叙述には切実さが欠けており、単なる観念の産物の域を出ていない印象を受ける。ゲオルク・ビューヒナーの「レンツ」における叙述そのものを変容させていくような狂気の描写、あるいはプルーストにおける死の強迫観念(語り手が聞く「病気が頭のなかで行ったり来たりする足音」――「ゲルマントの方」)、これらの叙述が孕む切迫感と比較すると、ロカンタンの嘔吐感はなんと作り事めいて見えることか(彼は不眠や不能や食欲不振を訴えない)。仮に病気だったとしても簡単に治るのではないだろうか。もっとも、本作における嘔吐感とはあくまで仮構の象徴でしかなく、リアリティ云々という指摘は見当違いなのかもしれないが。
訳者は1938年に発表された本作について、「いささかも古びることなく、今日の文学としても立派に通用する刺激的な作品である」と述べている。何に着目して読むのかという点にすべてはかかっているのだろうけれども、管理人には同意できない。存在の偶然性といったところで、必然だろうが偶然だろうが在ることに変わりはない。それならあとは主体の意志または解釈次第ということでもういいではないかと思ってしまう。嘔吐感の探求のほかに、「書くこと」と「生きること」の乖離や、ブルジョワ批判などの要素も含まれてあるが、それらにも興味を覚えない。時を空けて二度読んでも面白くないのだから縁がないのだろう。自伝『言葉』のほうが管理人には好ましい。
![]() | 嘔吐 新訳 J‐P・サルトル 鈴木 道彦 人文書院 2010-07-20 by G-Tools |
この記事へのコメント
『嘔吐』は孤独な個人が自由という近代の価値を捨てないで如何に生きるか、そしてひとつの可能性として、「完璧な瞬間」に象徴される芸術による救済を提示したのではないかと私は考えます。プルーストからの脱却というのは、プルーストとサルトルの時代では社会構造が前述のように変わったことや、サルトルは過去に人生の救済を求めないで、独自の道を探ったという意味に私はとりますけど、管理人さん同様、よくわかりません笑
嘔吐が「芸術による救済」を提示しているのかどうかはよくわかりません。そもそも救済が何かすらわかりません。ただ、サルトルは「書くこと」は「生きること」と相反していると見ているようです(元冒険家ロカンタンのモデルはマルローだとか)。この二者の乖離は彼の図式的な二項対立の思考でよく表現されています。ロルボンの伝記を放棄したのは、書くことが現実に何の影響も及ぼさないことを悟ったからで、似たことが『言葉』にも出てくるでしょう(芸術と現実の対立)。
サルトルの時代は世界大戦の時代で貴族たちの所謂サロン文化が崩壊したあとでした(プルーストの小説はベルエポックの絵巻でしょう)。ブルジョワのコミュニティーについてはよくわかりませんが、ロカンタンはブルジョワを侮蔑していますし、ブルジョワ批判は『嘔吐』の重要な要素です(美術館で肖像画と対峙する場面は本作の白眉でしょう)。彼がそこから孤立したとしてそれが彼の孤独なのかどうか。およそ痛切でない。私としては、たとえばルソーやドストエフスキーのほうがよく孤独を描いているように思えます。(醜悪な形式であれ)性的に疎外されていない人間は孤独とはいえないでしょうし、ロカンタンより独学者のほうがもしかすると孤独者としてよく描けているかもしれません。
あれこれ言っても、小説の価値は読者の主観が決めるものでしょう。生理といってもいい。私には、マロニエの木を見て気分が悪くなるという主人公の心理に千里の隔たりを感じます。夕暮れに佇む一本の樹を見て何の情緒も感じないというのも寂しいことだと。知よりも情に富んだ小説を好みます。もちろん好きなものは多いほうが楽しいので、『嘔吐』に感心できたらよかったのに、という残念な気持はありますが、そう思わないのならそれはそれでいいのでしょう。